Conrad Schnitzler / Interview

本インタビュー記事は、訳者およびコンラッド・シュニツラー氏ご本人承諾の上で掲載させていただきました。本文中に、同業他アーティストに対する辛口批評が含まれる点、ご了承下さい。

ユーロロック誌16号 | 独HAYFEVER誌97年3月 | 25.11.01 for SPAIN MAGAZIN | interview IV | 末尾

> ★★コンラッド・シュニッツラー・インタビュー
>            デ=デビッド・エリオット記者
>            コ=コンラッド・シュニッツラー
>            訳=Konchi
>
> ☆Zodiac Clubとタンジェリンドリーム
> デ:いつから、電子音楽に興味を持たれたのでしょうか。
>   シュトックハウゼンなどからの影響は、ありましたか?
> コ:もちろん。シュトックハウゼンは、ヨーロッパでは
>   この種の音楽の元祖みたいなものだからね。
>   私が初めて電子音楽を聴いたのは、14歳の時。
>   シュトックハウゼンだった。
>   かれの作品は全部、いかしてた。
>   特に、何か新しい感じのするのがよかった。
>   はっきりしたメロディーもないけど、そこがいい。
>   ドュッセルドルフやコロンの夜学でよく聞いた。
>   その学校には、この種の電子音楽好きが何人かいた。
>   当時は、最先端の音楽だったからね。
>   すごく面白い時代だったけど、もうはっきり覚えてない。
>   ラジオや友達から、よく聴かせてもらってたんだが、
>   結局、それ自体はたいした経験でもなかったし。
>   自分には聴くことより、創造することの方が大事だった。
>   あのころ私は、写真やフィルムを使うアーチストで、
>   彫刻家だった。
>   聴衆を前にコンサートをしたこともなかった。
>   まだ本格的には、音楽を作っていなかったんだ。
>   実は、父は音楽家だったんだよ。でも、何も教わらなかった。
>   彼は私が楽器にさわることすら、嫌がっていたからね。
> デ:お父さんは、クラッシックの演奏家ですか。
> コ:そう。バイオリンとピアノの。
>   それにオーケストラ用の作曲もしていた。でも、
>   私が父から学んだものはゼロだ。
>   何も知らないところから音楽を始めた。
>   楽器もできないまま。
>   私がするのは、即興さ。なぜかというと、
>   新しいサウンドに興味があるからだ。
>   特に電子楽器。とはいっても、スタート時点では
>   普通の楽器を使ってたけどね。
>   ピアノとチェロだ。


> デ:いまでもクラッシックの楽器には、抵抗があるんですか。
> コ:うん。我々が電子楽器をやりだしたころは、
>   いろんなことが起きる時代だったんだよ。
>   まず3,4人でグループを作って、すごく静かな音楽をやっていた。
>   チェロやバイオリン、チューバなんかで。
>   その時、バイオリン奏者がいつもつまらなそうにしていた。
>   楽器の音が小さすぎて自分の演奏が聞こえなかったからね。
>   そこで彼はすごく小さなアンプを持ち出した。
>   これが私と「電子楽器」の出会いだ。
>   そりゃあ面白かった。最高だった。
>   自分でも、もうワン・サイズ大きいアンプを使いだした。
>   これが極端までいったのがクラウス・シュルツなんて奴ら
>   がやってるやり方だね。あそこまで行くとやり過ぎだ。
> デ:いつから、「Zodiac Club」で演りだしたんでしょうか?
> コ:69年からだ。ちょうど新しい時代(70年代)にはいらんとする時さ。
>   エドガー・フローゼやクリス・フランケといっしょにコンサートをしたよ。
>   いいクラブだった。私にとってはすごくいい経験になった。
> デ:すごく大きい音を出してたそうですね。
> コ:ああ! そのノイズのおかげで、よくトラブったよ。
>   スモークたいたり、変な連中が集まったりもしたからね。
>   でも、実に刺激的な時代だった。


> デ:そこで、Kのクラスターも演奏したのですか?
> コ:そうさ。Kのクラスターは、私が結成した。
>   レデリウスとボリスと、「Zodiac」でね。
>   ボリスは最近、また音楽を始めたようだ。
>   でも、彼はその時代にこだわり過ぎてるみたいだけどね。
> デ:最初のレコードは、エドガー・フローゼやクラウス・シュルツと
>   やったタンジェリンドリームのファーストですか?
> コ:違う。最初のは、Kのクラスターだ。
>   同時に、エドガーといっしょにやっていた。
>   我々は早い時期から、演奏にテープを使っていた。
>   いくつかの機械や照明を使いだしたときには、
>   すでにテープ演奏を取り入れていた。
>   テープを使うかどうかで、エドガーらとよくやりあったよ。
>   彼らは元々、ロックミュージシャンだったからね。
>   ロックまがいのをやりたがった。
>   だから、コンセプトがどんどん薄まっていったんだ。
> デ:エドガーとやった「エレクトロニック・メディテーション」は、
>   楽しめましたか?
> コ:時折はいいと思える瞬間もあったけど、
>   彼らが私に逆らってたからねえ。
>   クラウスってのは、本当に何も知らん奴だった。
>   私は彼より年上で、エドガーが二人の間に立っていたな。
>   クリス・フランケとやる方が、ずっとうまくいった。
>   クリスは結構いいやつだよ。
>


> ☆Kのクラスター時代
> デ:同時に、Kのクラスターですか。
> コ:まあね。すべては69年のZodiac Clubで始まった。
>   そこには、他にはない何かがあった。
>   レデリウスと私は、メビウスといっしょ演奏した。
>   楽器とアンプと残響音でね。
> デ:Kのクラスターのファーストとセカンドを作ったのは、楽しかったですか。
> コ:もちろん。ファンタスティックな時間だった。
>   メビウスとレデリウスはすべての
>   ドラムと電子楽器を演奏した。
>   彼らが私に「レコードを作ろうか?」ってたずねたので、
>   「OK」とこたえたのさ。
>   で、デモ・テープを作るために、24時間のコンサートを計画した。
>   コンサートは最初の一瞬から、すばらしかった。
>   フィードバックと電子音だらけのサウンドだった。
>   レコードは教会がスポンサーになったんだ。
>   私が新聞広告を見つけたのさ。
>   「新しい音楽を求む」ってのを。
>   広告主はドュッセルドルフに住んでたころから知ってた人で、
>   会いに行ってテープを聴かせた。
>   彼は「いいね。レコードを作りたいかい?」っていうから、
>   我々は答えた。「もちろん!」。
>   彼は続けて、「でも、教会用のだから、レコードの片面には
>   朗読をいれなきゃいけないんだけど」って言うんだ。
>   我々は、それを了解した。
>   あのレコードは朗読の意味がわからない方が、よく聞こえる。
>   だから、ドイツ語のわからない英語圏の人向けだね。
>   君はあのレコード、聴いたことあるの?
> デ:ええ。
> コ:朗読について、どう思う?
> デ:ドイツ語はわかりません。
> コ:そりゃいい。あの意味を知ったら、ひどいって思うよ、きっと。
> デ:セカンドは、いつ録音したんですか。
> コ:同じ時さ。我々がスタジオに行くと、
>   すでに、装置やマイクが準備されていた。
>   コニー・プランクがやってくれたんだ。
> デ:ファーストも彼がエンジニアですか。
> コ:そう。彼が両方やってくれた。
>   我々は彼に「20分間演奏をするから、その間、
>   経過時間を教えてくれ」とだけ、頼んだ。
>   で、きっちり20分間、お互いの顔も見ずに演奏した。
>   一日で二枚のLP分を録音した。
>   セカンドの朗読部分だけ、あとでダビングしんだ。


> デ:「エラプション」イベントは、いつやったんですか?
> コ:エドガーと「タンジェリン・ドリーム」の仕事をした後だね。
>   だれかが「いっしょに何かやろう」と言いだしたんだが、
>   だれもお膳立てするのがいなくてね。結局、
>   私がすべて準備した。いっしょにやるメンバーを集めた。
> デ:全部、あなたが準備したのですか?
> コ:うん。とにかく、10人ぐらいのミュージシャンを集めた。
>   ロック・ミュージシャンもフリージャズのも電子音楽家も混じってた。
>   われわれはいっしょになって、
>   まさに独創的なことをやったんだ。
> デ:あなたが自費制作したカセットの「エラプション」がそれですか?
> コ:いや。あれはメビウスとレデリウスとのラスト・コンサートだ。
>   それは「(Kの)クラスターとエラプション」というコンサートだった。
>   「エラプション」イベントのグループを結成する前にやったものだ。
>   (原注;この録音は、かつてソロ作「黒」としてLPリリースされた。
>   1997年にKのクラスターのサードとして、
>   「エラプション」と改題されドイツの
>   「マージナル・タレント」レーベルからCD再発された。)
> デ:それから、3枚のソロアルバムを作ったのですか。
> コ:ソロっていうか、
>   最初のは、レデリウスやメビウスいっしょにやった「黒」だよ。
>   (上記原注参照)。
>   それからソロで、「赤」(原注;「赤」は97年にドイツの
>   「プレート・ランチ」レーベルからCD再発)と「青」を作った。
> デ:あなたが脱退した後の、Cのクラスターの現在の音楽は好きですか?
> コ:ああ。好きだよ。特にファーストがね。
>   レデリウスとメビウスは、私の好きな音楽を作り続けている
>   唯一のミュージシャンと言ってもいい。
>   というのは、私はレデリウスがまさに音楽を始めたところを
>   知ってるからね。彼は我々のスタートから学び、
>   他の人と仕事をする中で、だんだん変わっていって、
>   もっとポピュラーになったんだ。でも、それも私は好きだよ。
>   彼らが「グロッセス・ヴァッサー」を録音していた時に
>   偶然、スタジオで会ったんだ。その時、レデリウスが
>   「もう一度あなたと一緒にできたら、
>   もっといいものがつくれるのに」と話してたよ。
>   最近、彼はよりメロディックなのをやってるけど、
>   「こんなのを、もっとやらなきゃいけないんだ」と、こぼしていた。
>   多分、今の彼の音楽を監督してるのは彼自身じゃなくて、
>   奥さんなんだよ。
>


> ☆ソロ時代 アルバム「コン」など
> デ:50時間コンサートをやったのは、いつなのでしょうか?
> コ:「青」を録音した後、ルネ・ブロックのギャラリーでやった。
>   毎日3時間、16日間ぶっ続けでね。
>   とても静かなコンサートだった。
>   スタットガルトでも、毎日10時間4日間連続でやった。
>   基本的には機械を自動演奏させて、
>   ほんの少し私が手を加えて
>   サウンドを変えてたんだ。
> デ:ブロック・ギャラリーの演奏は録音したのですか。
> コ:ああ。100本のテープにね。
>   そのコンサートは、ほとんど同じ音楽の繰り返しなんだ。
>   私は本当に少しだけ手を加えただけさ。
> デ:50時間コンサートとアルバム「コン」のリリースの間には
>   何をされていたんですか?
> コ:いっぱい作品を作っていた。
>   ご存じのように、私は音楽の演奏家だけではない。
>   台所にいて料理をしている時だって、
>   ほかの何か別のことをしている時だって、
>   それは私の芸術の一部なのだ。それが私の生き方さ。
> デ:コンサートや、音楽とビデオのインスタレーションなどは
> しなかったのですか。
> コ:ああ。コンサートよりパフォーマンスの方をやっていたな。


> デ:ピーター・バウマンと知り合ったのは、いつですか。
> コ:ずっと前からの知り合いさ。
>   いつもピーターの作品には興味を持っていた。
>   彼がタンジェリンドリームをやめて、
>   「パラゴン・スタジオ」を始めた時、彼の方から
>   「もしよかったら、何かやりませんか」と声をかけてくれたんで、
>   一緒にやることにした。それがアルバム「コン」。
>   家で録音済みのトラックを、いくつかスタジオに持ち込んで、
>   彼がプロデュースした。
> デ:それはあなたの初期のトラックですか。
> コ:そう。赤いカセットから。
> デ:アルバムがメジャー・レーベルを通じて
>   全世界でリリースされたって、どんな感じでしたか。
> コ:おかしな体験だった。
>   それまで、私は暗い穴蔵のような部屋で
>   金もなく、じっとしていたようなもんだからね。
>   すべてが変わった。得たものは大きかったよ。
>   手元に来たお金は、大した額ではなかった。
>   でも、みんなが私を知ることになったんだ。
>   (原注;そして、20年後には、
>   間違いなく、より多くの人がコンラッド・シュニッツラーを
>   知っていることだろう)
> デ:あれはイギリスでも、けっこう受けましたよ。
> コ:といっても、私のやる音楽はポピュラーではないから。
> デ:もちろん、だれにでも受けるものではないですが、
>   少数ながら熱狂的なファンがいますよ。
> コ:そうだね。そっちの方がいい。
>   なにか特別なレコードを探してレコード屋に
>   行くような人たちがいるよね。
>   そんな人たちのために、私は音楽をやってる。
>   もし、仮にだれも私の作品を買わなくても、
>   大して問題じゃないんだ。
>   私は自分自身のためにやっていくからね。
>   それまでと同じように。
> デ:いまのタンジェリンドリームの音楽って、どうですか?
> コ:レコードプレーヤーを持ってないから、
>   ほとんど音楽を聴かない。
>   ただ、ラジオからときどきタンジェリンのが流れるのを聞くけど、
>   もろBGMだね。私には、ぜんぜん刺激的な感じがしない。
>   まあ、そういうのが好きな人にはいいんだろうが。
>   私には、ああいうのはできないね。
>   だって楽器ができないから。もし、私もピアノが弾けたり、
>   また、ピアノが弾けるようになったりすれば、
>   同じようなクソ音楽をやっていたかもね。
>   私には、音楽が自然に生まれてくるようにしかできない。
>   偶然に生まれたり、私がやりたいことを自然にすくい上げたりね。


> デ:「コン」の「バレ・スタティク」などの曲では、
>   あなたの曲には珍しく、リズム・トラックがちゃんとありますね。
> コ:うん。あれはエコーを利用したリズムなんだ。
>   ちょっと面白いだろ。スタジオに
>   行った時、何も機材を持っていかなかったんだ。
>   ピーターは「あれ、どうして何にも持って来なかったの?」って驚いたけど、
>   「じゃあ、僕のシンセ使えばいいよ」って貸してくれた。
>   どう扱えばいいかも教えてくれたんだ。そこから二人で始めた。
>   確かあの時は、好奇心から機材をいろいろいじくってるうちに
>   エコーマシーンのスイッチを入れてしまったんだよ。
>   メロディはもうできてたから、それに一つの音を加えただけだった。
>   「ピン」っていう奴。
>   この音は、初期のカセットから採った。
>   ほかのリズムは、リズムマシーンからだね。
>   あれこれやってて、シーケンサーも使ったよ。
> デ:「ツグ」という曲で、シーケンサーを使ったんですか?
> コ:いや、あれはただのリズム・マシーンに
>   エコーとリング・モデュレーションをかけただけだ。
>   「メタルュ」では、ハーモナイザーを使うのに夢中になった。
>   ピーターは使い方を教えてくれた。オルガンの音を重ねて、
>   ハーモナイザーを通すとあんな音になるんだよ。
> デ:曲のタイトルは、サウンドの感じから付けるんですか?
> コ:私は、タイトルが大嫌いなんだ。
>   大、大、大、大、大、大っ嫌いだ。憎んでるよ。
>   ごくまれには面白い言葉もあるんだが、たいていはくだらない。
>   あれは、私がつけたんじゃないんだ。
>   次のレコードでは、ただ番号だけを使おうと
>   思っている。というのは、
>   いつもテープには、作品に番号をつけて記録してるからね。
>   作品が多すぎて、整理するにはそれしか方法がないんだ。
> デ:「コン」の裏ジャケットの写真で、
>   あなたが持っている長いチューブみたいなのは何ですか。
> コ:あれは普通のチューブだよ。
>   中にカセットテープレコーダーが入っていて、
>   チューブで音が変化するんだ。あれも小さな芸術作品さ。


> デ:これからの計画を教えてもらえますか。
> コ:私の未来は、世界の未来と同じだ。
> デ:もっと有名になりたいとは、思いませんか。
> コ:たぶん、これからの人生もいままでやってきたのと
>   同じように過ごすことになるだろうね。
>   何が起きても、変わらないよ。
>   もし、君が「ビジネス」の虜になったら
>   お金に追い回されて、やがては殺されてしまうだろう。
>   ストレスまみれになって。
>   私は、かりに音楽をやらなくなっても、
>   ほかの何か自分のやりたいことをやっているだろう。
>   文章を書いたり、映画を撮ったり、
>   パフォーマンスをしたりね。

> 1980年1月7日、ベルリンにて。初出「ユーロロック」誌16号


★★コンラッド・シュニッツラー/インタビュー
(97年7月 英サウンド・プロジェクター誌2号より、 初出は独HAYFEVER誌97年3月)
訳: konchi

☆私はタイトルが嫌いだ
 私はパフォーマーであり、アクション・アーチストである。
インターメディア・アーチストであり、
決してマルチメディア・アーチストではない。
私は芸術の枠組みの隙間で、作品を作ってきた。
ミュージシャンとしてのみ扱われるのは、侮辱に等しいと感じる。
自分としては、むしろ作曲家だと思っている。
あるいは一種のカットアップ・コラージュの構成家だ。
 有名になったり、大勢に支持されたりすることには興味がない。
わたしは自分の仕事をするだけだ。
いま私がやってることに対して、数十年後にだれかが
興味を持つとは思えない。私は全力で、いま、ここに生きている。
いまを生きているということは、つまり、
この瞬間は次の瞬間には、もう過ぎ去っているということだ。
 これまでに自費制作したすべてのカセットやCDは、
「現代音楽」のカテゴリーに入れるべきものだ。
私は何かするにしても、同じやり方で十回も繰り返そうとはしない。
原則的には、以前にやったことを繰り返すことに満足できない。
原則的には、私は何も売らない。
作品からいくらかの報酬を得ることは認める。
ただ、私は金のためではなく、
自分自身のために作品を生み出す作業を続けている。
 過去においては、CDを自分で売っていた。
しかし、もうやめることにした。
一人のアーチストがすべてをすることはできないと気づいた。
私にとって、もはや何かを売ることは
全然重要なことではなくなった。
満足に食べ、眠るところもあるのだから、とりあえずはそれで十分だ。
 どうして、それ以上を求める? 
どうして、成功や巨額の富を求める? 
地位や富が人の価値を決めるという考えは、どこから生まれた? 
そういう考えが、人をお金を追い求めるようにさせるのではないか?
すべてのポップ・ミュージックがポピュラー・ミュージック、
つまり大衆のための音楽になると、
ポップ・ミュージシャンはたくさんのお金を手にするようになった。
それは人をあっという間に堕落させる。
私は、そうはなりたくない。くだらないことだ。
 作品を作り続けて、30年近くになる。
ほとんどの人々は、私の古い作品にばかり興味を持ちたがる。
これでは、現在の私の立場がない。
いま作っている作品を、否定されているような気分になる。
もっと最近の作曲作品にも接してほしい。
 ノスタルジアはほしくない。人生は短く、ある日突然終わるものだ。
だから、過去には生きたくない。
未来にも生きたくない。
今を生きたいのだ!
 過去に作ったレコードは、できた端からテープに録音していった。
言葉の最も広い意味で、これは「テクノ」だ。
ただリズムマシーンとミニマルなメロディがあるだけだ。
さて、それでは、ばかげたタイトルの例を一つ。
"Die Rebellen haben sich in den Bergen versteckt"
 (反乱軍は山中に隠れた)……一体これ、どういう意味?


☆いわゆるクラウトロック
 「クラウト」とは、塩漬けキャベツ。満腹感が味わえる。
 「ロック」は「ロック」。ギターとベースとドラムで何かをするもの。
例えばカンは、「何か」をやった。
しかし、私にはそれが「何か」わからない。
イルミン・シュミットはクラシック音楽を学んだ。
彼もまた、カール=ハインツ・シュトックハウゼンの生徒だった。
そんな彼が、なぜ、あんなばかげたロック・ミュージックをやったのか、
私にはまったく理解できない。
確かに、カンは何曲かちょっとアブストラクトな作品を録音したが....
 とはいえ、私のやり始めたこと、そして今もやっていることと、
イルミン・シュミットは、ほんの少しつながりがある。
私は音をつむぎ、曲を作る。
「楽器ができないなんて気にするな! 不完全でいい。
余計なことを考えずに、とにかく演れ!」
彼はある時そう、私に言った。
1967年だった。
その言葉は、私を大いに勇気づけた
おかげで、私はここまで続けてこれたといえる。
私は、カンのようなヒッピー・ミュージックが好きになれない。
退屈で、どれでも同じようなものだ。
私が好むのは、別のもの。
−−ピエール・シェフェール、ピエール・アンリ、
         シュトックハウゼン、ジョン・ケージ....


☆Kのクラスター
 Kのクラスターの前にやっていた私の最初のグループは、
GERAUSCHE(=ノイジズ)。もし、大勢でノイズを出せば、
それはオーケストラになる。
 もし、一人で演るとすれば、例えてみるとリノリウムの床の上に
落とす石の音だ。一個の音はソロトラックに当たる。その音を
いくつものトラックに多重録音すれば、作品となりうる。
 Kのクラスター、それは私のことだ。
いくつかの楽器とマイクとエコーマシンで、やかましいノイズを
出す。ただ「演奏」して、好きなように作品にする。
ノイズとはいえ、きちんと構成すれば、ただのカオスではない。
それは「音楽」に成りうるのだ。工場に足を踏み入れて、
目を閉じて周りの音に耳を傾ける。
特に、鋼鉄の大きな機械が動いている工場がいい。
 私はエンジニアリングを勉強したから、
海に行くとき、車のエンジンの調子を自分で確かめる。
いつも、エンジンの音の調子を合わせてきた。
変な音がしたら、あちこちいじって調整する。
その時、作曲への第一歩を踏み出したことになるのだ。
 我々、Kのクラスターが生み出したホワイトノイズの塊の中に
すべての音が含まれている。すべてだ。
私はずっとホワイトノイズについて、深く考えてきた。
 タイトル。私はタイトルが嫌いだ。
私はプログラムされた音楽が嫌いだ。
他人が私の音楽に付けるために、でっち上げたタイトルだらけだ。
私はタイトルについては、一切関わりがない。
例外は「エレクトリック・ガーデン」というタイトル。
元々は私のアイデアではない。
英国のグループ「ホワイト・ノイズ」に、「アン・エレクトリック・ストーム」という
なかなかよい曲がある。これまでに作られた中では最良の
電子ポップ音楽のLPだ。当時の流行に合わせたものだが、わるくない。
その中で私は「エレクトリック・ガーデン」という言葉を見つけて、
自分の作品に拝借した。
 Kのクラスターを、KLUSTER2000として蘇生させる計画がある。
Cのクラスターではなく、Kだ。
実際、Kのクラスターは一度も死んだわけではない。
私はこのグループが無くなったと言ったことはない。なぜなら、
私がそのグループ、Kのクラスターそのものだからだ。
ここ何年間も、Kのクラスターの名前で一人でギグをやってきた。
それに、なんだかクラウトロック・マニアとかいう連中の間で
Kのクラスターへの興味が盛り上がっているそうではないか。
それでは、いってみよう。
「出発進行、Kのクラスターだぜ」


☆タンジェリン・ドリーム
 これ(バンド)については何も言うことがない。
あたりさわりのない音楽ってところか。寝るにはちょうどいい。
私のやってるものとは、まったく無関係な代物だ。
ただの「ポップ」ミュージック、芸術性は皆無。
つきつめれば、ポップシンガーのヒット曲と同じ類だ。
なにがしらの「アート」があるそぶりでも
しようものなら、噴飯ものだ。
私は嫌いだ。
耳障りのよい音楽というのは、
人類にとって有益な刺激を、何ももたらさない。
結局、多くの人に受けるかどうかは、
私が求めていることではない。
自分の望むようにやるのみだ。
ヨーゼフ・ボイス(Joseph Beuys)になぞらえてみよう。
彼は、画廊に獣脂の一塊を展示してみせた。
みんなが言う。「で、これが芸術?」
くさくて醜いこと自体が人を惹きつけることもある。
芸術が難しいのは、そこなのだ。


★★コンラッド・シュニッツラー・インタビューッ
(25.11.01 for SPAIN MAGAZIN margen ,by Rafa DORADO)
訳: konchi

1.タンジェリン・ドリーム(TD)に参加した時、あなたはクラウト・ロックの発展に一役買いました。TDへの参加経験について、簡単に話していただけますか。

あのころの私は、何が発展につながるのやら、まるっきりわかっていなかった。
あれは単に音楽を演奏しただけ。当時の演奏はサイケだとは思わない。
まったく普通だと思う。あの演奏に参加した者で、あのサウンドを奇妙に思う人間なんていなかったよ。
わたしは、ほかのメンバーより年長で、その分、いろんな音を聞いてきた。
1937年生まれってことは、第二次世界大戦を経験しているということだ。
あの戦時中の爆音やノイズこそ、私の音楽を作る方法の重要な土台になった。
戦後、私はアメリカの音楽の影響をもろに受けた。ほかにも、ジャズ、アフリカ音楽、 中国の音楽や日本の音楽、インド音楽、エスキモーの音楽にスペイン音楽、もちろんロックやアングラ音楽、パンクにも影響された。
私以外のメンバーはロックが大好きで、ロックスターになりたがっていた。しかし、だれ一人として他人を単にコピーした音楽をやろうとは思わなかった。
人は、自分のセンスや情緒、能力を使って、自分のスタイルの音楽を作ろうとするものだ。
TDのサイケデリック性を、ドイツ人の精神性にこじつける意見もある。
あるいは、テクノの最先端と持ち上げたり、ドイツ民謡の可愛いメロディーにルーツを求めたり...
音楽評論家は、その複雑さをもっとよく考えるべきだ。
どんな理論も、TDに当てはまるものものではない。
我々は演奏したいように演奏した。ただ楽しむために。
でも、そんなタイプの音楽が売れるわけがなかった。

2.Kのクラスターについても...

Kのクラスターについて。
私がKのクラスターを1969年に結成した。アイデアはメロディーのないサウンドをインダストリアルなノイズに乗せてみようというものだった。
あのころ、レデリウスとメビウスに出会って、彼らは私のアイデアに賛同した。
ところで、私はいわゆるミュージシャンではない。
私はインターメディアのアーティストで作曲家だ。
Kのクラスターとともにたくさんのコンサートをこなした。
「エラプション」はグループを離れる直前のラスト・コンサートだった。
私の脱退後、メビウスとレデリウスは、Cのクラスターと名前を変え、Kのクラスターの名は私が、自分の活動のために使うことにした。

3.今日のクラウトロックやすべてのサイケ・ムーブメントについてどう思われますか。

実際、私はその種の音楽を聴かないので、意見は何もない。

4.あなたは60年代サイケ音楽の重要人物でした。サイケ系のドラッグは、あの時代には創造性を刺激したと思うのですが...

いや、ドラッグはあのころ重要だったとも思わないし、創造性を刺激したとも思わない。

5.サイケ音楽は20世紀の音楽にとって、もっとも重要で創造性にあふれた起爆剤であり、ロックだけでなくクラシック音楽にも大きな影響を与えたと思います。この意見に賛成ですか。

いや、私はそうは思わない。以下の人たちのことを考えてみればいい。
BELA BARTOK ,ERROLL GARNER,PAUL HINDEMITH.VIKTOR ULLMANN,
GYヨRGY LIGETI,GIACINTO SCELSI,ISANG YUN,KARL HEINZ STOCKHAUSEN,
JOHN CAGE,ERNEST BLOCH,KRZYSZTOF PENDERECKI,SOFIA GUBAIDULINA,
MEREDITH MONK,WOLFGANG RIHM,JOAQUIN RODRIGO,HEINZ HOLLIGER,
PIERRE BOULEZ,WOLFGANG DAUNER,OLIVIER MESSIAEN,
JIMI HENDRIX,MILES DAVIS
ほかにも大勢の音楽家たちが、サイケに影響を受けたと思うかね?
反論はこれで十分だろう。

6.私はあなたの音楽の手法が非常に多彩なのにとても興味があります。あなたはカメレオン的な作曲家ですね?

わたしは私自身であるだけだ。だれか別の作曲家風の印象を与えようとは思わない。
カメレオン的? つまり周囲の世界に合わせて自分の色を変えられると言いたいのか?
人間というものはだれでも、いろんな面を持ち、違う顔を見せるものではないか!

7.ファーストソロの「黒」から、「conal2001」までのあなたの音楽的な進化について教えて下さい。

絵画がジャクソン・ポロック以降、解放されたのと同じように、音楽は音階への隷属から解き放たれた。すべてが自由になった。
それぞれの音 (楽音)は、ほかのどんな音とつながってもかまわない。
私が手に入れたこの自由は、私の個性を形作っている。
長い間集中力を持続させて仕事を続けたことで、自由の領域はどんどん広がっている。
私の仕事は、まだまだ発展途上にある。
私の仕事には、なんらの音楽理論はない。
ただ、仕事を続けることは自分の方法を発展させることである、という原則以外はね。

8.ソロとしての近年の活動で、作品作りはどう変わりましたか。変わらないことは何ですか。

自由であるために、別のアーティストとの共同作業は避けてきた。
それゆえ、妥協しないで済んだ。
好きなように作品をまとめられるし、売れるかどうか心配しなくていい。
純粋なる「芸術のための芸術」。何をするにも完全に自由だ。
ほかのだれが、こんなことをできるだろう。
私だけに許された特権なのだ。

9.はっきり言って、あなたのスタイルはポピュラーと「シリアスな音楽」の狭間にあり、限界も感じます。あなたの音楽は幻覚を起こさせる方法としては洗練されているように見えます。この見方はどうですか。

ああ。私は幻覚がないと生きられない。

10.あなたは作曲や即興の際、ハーモニーやリズム、音楽の構造には関心を払われないようですが、完成したサウンドはコンセプチャルなテーマを持つように思えます。

ドイツのことわざに「音が音楽を作る」というのがある。
もちろん、音の長さ、大きさ、音同士のつながりなどいろんなものを、作曲する時には考慮する。

11.作曲や即興に向かう動機は何ですか。

楽しいからだ。

12.あなたの音楽のカギとなる要素とは何ですか。

考えたことがない。

13.どういう瞬間に、作品が完成したと感じるのですか。レコーディングの際、失敗したなと後悔することなんてあるのでしょうか。

この質問はすべてのアーティスト、画家、小説家、作曲家に聞いてみたい。
芸術というものが生まれて以来、答えのみつからない問いかもしれない。
私の場合、お腹が減って食事をとりたくなった時、ペットの犬が散歩をせがんだ時、
隣人に助けを求められた時、妻が私を欲した時、
私は作品作りを中断し、作品も完成する。
もし、いつまでも仕事を続けられるなら、永遠に作品は完成しない。
いまも続いているだろう。

14.Conal2001とConal(1981年作)の関係を教えて下さい。実際、2001に、81年作品のトラックは含まれるのですか。

Conal2001は全体として、古いテープの新しいミックスだ。Conal1981のオリジナルテープは失われたが、未使用のLPが何枚か残っていたので、CDへの変換が可能になった。

ところで、私の70年代初頭からの古い作品について、言っておきたい。
ここ数カ月、古いテープとはひどい悪戦苦闘を続けた。
私はお金持ちだったことはないので、それらの録音テープは安モノだ。
だから、テープ同士がくっついて、離れなくなっていた。
何千通りものやり方を試して、なんとか再生可能にした。
ちょっと高価な8トラックテープでさえ、しばしばレコーダーのヘッドにひっかかった。
ひどい目にあいながらも、ベストは尽くした。
その結果、何本ものテープをダメにした。

CDR通販リストの用語を説明すると、TRAとは、8トラックテープからの変換(トランスファー)という意味だ。
時々、違うタイトル表示のCDRに、同じ曲がはいっていることがある。
また、今のリストには以前一枚のLP作品だったものが、何枚かのCDRに分けて収録されていることがある。
カセットコンサートのための作品、とあるのは、私の右腕ケン・モンゴメリーと私がコンサート用に使ったものだ。
CONTとは、昔、カセットレーベルの「トランスミッター」から出ていた作品で、その名が「コン・ミュージック・イン・コンテナ」だった。
コンテナのCONTだ。
作品はCDRに移す時、曲順を入れ替えるなどしている。
しかし、まだ、すべてが完了したわけではない!

15.もし、あなたの作品を一つだけ、未来の世代に残すとしたら、どれを選びますか。

全作品か、何も残さないか、どちらかだ。

16.今後の計画はありますか?

うん、毎日をエンジョイして過ごすことだ。いつこの世の終わりが来てもいいように。

17.ほかに付け加えることは?

うーん、忘れた。

18.ありがとう、コン。少ない質問で恐縮です...

いやいや、答えを考えたり、訳したりにすごく時間かかったんだよ。
妻のギルにも世話をかけたよ。



★★コンさんインタビューW
テーマ:CON/KLUSTER
      by Stiliffe (Stephen lliffe)
02/Mar.20
      訳; Konchi

1.
まず、質問に答える前にはっきり言っておきたい。
私は古い時代についての質問に答えるのは嫌いだ。
この回答は、ただアキム(訳注;レデリウスの愛称)への友情に免じて
やっているにすぎない。

2.あなたのいわれる「音による絵画」とは何ですか?

音の絵画とは、音階に制限されるのものではなく、
韻律によって配列されることもないものだ。

3.あなたがヨーゼフ・ボイスから学んだ最も重要なことを一つ挙げてください。

本物であれ、そして自分自身を除いて、古いものをうち捨てよ。

4.どんなふうにハンス=ヨアキム・レデリウスと初めて出会ったのですか。
 何が二人を友人にしたのですか?

アキムとはベルリンがワイルドだった時代に、パブで出会った。
すべてが可能で、だれも損得勘定抜きに動いていた。
我々の仲間は、みんな特別な何かを欲してした。
二人の友情は、長い時間をかけてつちかわれたものだ。

5.あなたがレデリウスに「Gerausche(=Noises)」(訳注;CONの最初のグループ)
 への加入を促した時、
 彼はまだ、いわゆる「正式な」ミュージシャンではなかったですね?
 彼のどんなパーソナリティがグループにぴったりだと思わせたんでしょうか?

我々、グループのメンバーは全員、正式なミュージシャンではなかった。
それは音を生み出すのに必要なことではなかった。
我々は気が合った者同士で集まって、当然のように試行錯誤を繰り返した。

6.Zodiac Free Arts Lab について教えてください。
 どんな建物で、どんな雰囲気で、どんなイベントだったのか。

Zodiac も一つの事件だった。軌道に乗せたのはボリスだった。
彼は当時のまとめ役で、顔が広かった。ボリスの後、
アキムと私で最初の理論的なコンセプトを固めた。
それは、どんな場合でもヒッピー・ミュージックはしないということ。
その理想的なアイデアのために不可欠な構造をもつ空間を必要とした。
それが新しい活動のための場所に発展した。
しかし、その時期は本当に短かった。
この時代には、すべてがあっという間に終わってしまった。

7.Kのクラスターについて

私がKのクラスターを1969年に結成した。
アイデアはメロディーのないサウンドを
インダストリアルなノイズに乗せてみようというものだった。
あのころ、レデリウスとメビウスに出会って、彼らは私のアイデアに賛同した。
ところで、私はいわゆるミュージシャンではない。
私はインターメディアのアーティストで作曲家だ。
Kのクラスターとともにたくさんのコンサートをこなした。
CDの「エラプション」(訳注;LPでは「黒」)は
私がグループを離れる直前のラスト・コンサートだ。
私の脱退後、メビウスとレデリウスは、Cのクラスターと名前を変え、
Kのクラスターの名は私が、自分の活動のために使うことにした。
(訳注;この回答は、スペイン誌 ”MARGEN” のインタビュー回答の流用)

8.Kのクラスターが演奏した時、ほとんどコンサートホールではなく、
 画廊や美術館で演りましたね。どうしてですか?

最初はボイスを通じて、その後には私自身がアート・シーンで
フリー・アーチストとして知られたので、画廊などのステージで
パフォーマンスをするという交渉ができたからだ。

9.そのようなコンサートでは聴衆からどんな反応を得られたのでしょうか。

純粋なる驚き。

10.Oskar Gottleib Blarr (訳注;Kのクラスターの2枚のアルバムの
 プロデューサー) は、メシアン・タイプのクラシックを演奏する
 教会オルガニストでした。
 そんな彼がいったい、なぜ、あなたがたのようなノイジーで
 非音楽的なグループとの共同作業を望んだのでしょうか。

私が彼を説得した。説得するのは簡単だった。なぜなら、
そういう時代だったし、その上、私の友人であるデュッセルドルフの Hermann Gelen
(原注;プロの作曲家で優れた演奏家でもあり、若いころ私に新しい音楽の潮流を
教えてくれた人物)が Blarr に我々の演奏の評判を伝えてくれたから。
Hermann Gelen と Luigi Peleccioni (原注;彼も作曲家)と一緒に、
50年代にコロンから放送された深夜放送をよく聞いていた。

11.Kのクラスターが、Fehmarn でライヴをしたジミ・ヘンドリックスと共演したら
 どんな演奏になっていたでしょう。

考えたこともない。

12.Kのクラスターは尊敬や称賛も得たでしょうが、一方であのアヴァンギャルドな
 ノイズを激しく拒絶する暴力的な反応もあったはずです。
 何か思い出すことはありますか。
 もし、そんな反応があったとすれば、どんな客層からでしたか。
 実際、どんな反応があったか教えてください。何とヤジられたのでしょう。

いやいや。本当に悪い反応は、ほとんどの聴衆に無視されたことだ。
今もそうだ。

13.Kのクラスターの1枚目”Klopfzeichen”であなたは、
 どんな楽器を使ったのですか。
 レデリウスの楽器は何でしたか。メビウスは?
 一体どんな機材を駆使して、あの印象的なサウンドを生み出したのでしょうか。

ああ、なんてひどい質問だ。
楽器は、アンプにつないだ普通のもの。
ロックバンドが使うようなエコーやディレイなどのエフェクトも使った。
もちろん、身の回りのすべてを使って音をたてた。
タイプライターや電気ひげそり、金属のポットに入れたガラスのボール、
肉切り機からとりだした金属のバネ、それに
木のスプーンなどマイクをくっつけられるものすべて。

ずっと後になって、私は Tonart2 という作品で、同じようなモノを使った
実験音楽を作った(原注;CD ”Tonart2” のことだ)

14.Klopfzeichen の音は当時は、まさに「過激」だったのでしょうが、
 今聴き直してみると、作品は非常に「統制された」もののように思えます。
 Kのクラスターの3人はどうやってお互いを「理解」して、
 演奏を合わせたり、組み合わせたりできたのでしょうか。

あれは別に、過激な作品ではなかったと思う。
我々以前に同じことは、すべてなされていた。ノイズとともに演奏することも。
当然、Pierre Henry や Cage、Stockhausen などの人たちがいた。
我々Kのクラスターは、フィーリングとスペース感で演奏した。
私はKのクラスターのアイデアをすごく面白がっていたし、
3人はお互いを尊敬していた。

私が抜けた後の C のクラスターは、音の明瞭さや鋭さ、強さを失って、
感覚やメロディに走ってしまった。「売る」ためにね。
でも、これは私の言うべきことではなかったな。

15.Kのクラスターの録音があのようにうまくいったのは、メンバー3人の間に
 何らかの化学反応が起きたからでしょうか。それはどんな化学反応でしたか?

あの録音がうまくいったって?

16.コニー・プランクは録音の際、どのような貢献をしたのでしょうか。

ほかのすべてのサウンド・エンジニアはいい機材を使って、いい音を作るものだ。
あの時はそれよりも、プロデューサーの Blarr に屈しないようにがんばった。
確かに我々は、Blarr の要求した朗読を受け入れたが、
その代わりLPのサウンド・プロダクションには口出しさせなかった。
朗読はあとで、音楽の上にかぶせられた。
コニーの音については、Freudigmann がエンジニアを務めた
Kluster Eruption や Electric Meditation と聴き比べてみればわかる。

17.Kのクラスターの作品 ”Klopfzeichen” や ”Zwei Osterei” は
 音楽誌のレビューで取り上げられたのでしょうか。
 もし、そうなら、どのような評だったか引用してもらえますか。

私は、過去に興味はない。
私は今を生きているのだ。
過去に私の音楽について言われたり、書かれたりしたことなど
どうでもいいことだ。


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